坂東 三津五郎家 家系図
坂東三津五郎家は、約250年前に大坂の浜芝居で人気のあった竹田巳之助という役者が坂東三八に芸を認められ、江戸に出て坂東三津五郎を名乗ったところからはじまり、その名跡は十代目まで継承されている。
初代の実子の三代目三津五郎は文化・文政期には江戸を代表する人気役者となる。この人の若い頃の名前が初代坂東巳之助である。三代目は舞踊にもすぐれ、現代にも残る演目を数多く初演した。その門弟の女師匠(女狂言師)たちが受け継いだものが日本舞踊坂東流の基となった。
また、坂東三津五郎家と守田(森田)勘弥家は古くから密接な関係があり、守田座(森田座)の座元の家でもあった。
初 代 延享2年(1745)~天明2年(1782) 俳名 是業
大坂の浜芝居で人気のあった竹田巳之助が坂東三八にその芸をみとめられ養子となり、江戸に出て初代坂東三津五郎を名乗った。
その後は、江戸の芝居で若手の立役として活躍し、曽我狂言の十郎、「先代萩」の頼兼、「封印切」の忠兵衛、「寺子屋」の源蔵などが当り役といわれた。
二代目 寛延3年(1750)~文政12年(1829) 俳名 初朝
初代尾上菊五郎の弟子の紋太郎のそのまた弟子で、はじめ藤蔵といい後に紋三郎と改名した。その器用な芸風が初代三津五郎とよく似ているといわれ、天明5年には二代目三津五郎を襲名した。「千本桜」の義経、忠信、「忠臣蔵」の判官、勘平などが当り役といわれる。
初代三津五郎の長男の簑助が成人したので名跡を返上し、後年は二代目荻野伊三郎となった。二代目の娘は三代目三津五郎に嫁いだ。
三代目 安永4年(1775)~天保2年(1831) 俳名 秀佳
初代三津五郎の実子。坂東三田八といった子役の時代から注目されていたが、その後、坂東巳之助、森田勘次郎と改名し、初代簑助を名乗る頃には江戸随一の和事師と言われるようになった。
当り役には「先代萩」の頼兼、「熊谷陣屋」の熊谷、「実盛物語」の実盛、「ひらかな盛衰記」の源太、「封印切」の忠兵衛などがある。
また、舞踊にも秀で三代目中村歌右衛門と競うように変化舞踊の上演に力を注ぎ、その隆盛の一端を担った。現在でもしばしば上演される「汐汲」「傀儡師」「まかしょ」「玉兎」などは三代目の初演した変化舞踊の一部である。
三代目は日本舞踊の坂東流の流祖といわれているが、現在の坂東流は当時の女門弟が町の師匠となり、その流れを受け継いできた人たちが後年流派としてまとまったものである。深川永木河岸に住んでいたので、「永木の三津五郎」といわれた。
四代目 寛政12年(1800)~文久3年(1863) 俳名 秀朝
三代目三津五郎の養子。中村座の子役として坂東簔助で初舞台。のちに上方の浜芝居で修業し、文政10年に江戸に戻る。このころ、二代目中村芝翫(のちの四代目歌右衛門)と江戸の人気を二分したといわれ、二代続けて大和屋と成駒屋の競演となった。「三社祭」は「弥生の花浅草祭」という三段返しの変化舞踊のひとつとしてこの二人の共演で初演された。
役柄は幅広く、「忠臣蔵」の七役(師直・判官・本蔵・由良之助・勘平・与市兵衛・定九郎)なども好評を博した。
中風を患い、体が不自由になっても舞台に立っていたので、「ヨイ三津」といわれた。
後年、是好と改名し、さらに安政3年には森田座の櫓が再興して、十一代目守田勘弥になった。「森田」から「守田」としたのはこの時からである。
五代目 文化10年(1813)~安政2年(1855) 俳名 秀歌
三代目三津五郎の養子。市村座帳元橘屋治助の子といわれる。
文政7年市村座で、坂東玉三郎として初舞台。一時、上方で修業し江戸に戻ってから三代目の俳名「秀佳」の字を改め、坂東秀歌、後に名前を平仮名にして坂東しうかと名乗り活躍した。
五人男を女に書きかえた「初袷雁五紋」は大好評で、他にも女清玄、女暫、女鳴神、さらに下級の遊女や伝法肌の芸者役などを得意とした。
腫物のために坂東しうかのまま急死したので、後に五代目三津五郎を追贈された。
六代目 弘化3年(1846)~明治6年(1873) 俳名 秀山
五代目三津五郎(坂東しうか)の実子。幼名は吉弥。しうかが襲名せずに没したので当時は五代目と呼ばれていた。
父の芸を継いで、芸者役などを得意としたが28歳の若さで亡くなった。
幼名から「吉弥三津五郎」とよばれていたが、顔にあばたがあったので「あば三津」ともいわれていた。
当り役には「梅暦」の米八、「明烏」の浦里、「関の扉」の小町などがある。
七代目 明治15年(1882)~昭和36年(1961) 俳名 是好
十二代目守田勘弥の長男。明治22年10月桐座、「先代萩」の鶴千代で初舞台を踏む。
明治39年4月歌舞伎座、「吉野山雪の故事」の又五郎で七代目三津五郎を襲名。
五代目尾上菊五郎、九代目市川團十郎の薫陶をうけており、正しい古典歌舞伎の技芸を継承し、お手本と言われた。舞踊も「踊りの神様」といわれるほどの名人で、なかでも「喜撰」「傀儡師」「舌出三番叟」「供奴」などは非常に高く評価されている。また六代目尾上菊五郎とともに「棒しばり」や「身替座禅」などを初演している。
大正9年には、三代目の流れをくむ町の師匠たちが集まり、七代目三津五郎を家元に現在の坂東流が始まった。
昭和32年9月歌舞伎座で六代目簑助(八代目三津五郎)と共演した「寒山拾得」の寒山が最後の舞台となる。一時危篤状態になったものの、大変かわいがっていた曾孫の現三津五郎の声で意識を取り戻したというエピソードがあるが、残念ながらその後舞台に立つことなく四年後の昭和36年に没した。
日本芸術院会員。文化功労者認定。
八代目 明治39年(1906) ~昭和50年(1975) 俳名 是真
七代目の養子。大正2年1月市村座、「奴凧」で三代目八十助を名乗る。昭和3年6月明治座、「鞍馬源氏」の牛若丸で六代目簑助を襲名。
近代劇の創始者小山内薫の薫陶をうけ、昭和7年に劇団新劇場を設立。その後、東宝劇団を経て松竹に復帰し、関西で活躍する。
その後、東京に戻り、昭和37年9月歌舞伎座「喜撰」などで八代目三津五郎襲名。この時、後の九代目が七代目簑助を当代が五代目八十助を同時に襲名、「三代襲名」として話題を集めた。
当り役には「関の扉」の関兵衛、「忠臣蔵」の師直、「俊寛」の瀬尾、「助六」の意休などがある。敵役を得意とした。
昭和50年1月京都南座に出演中に急死。
読書家で教養が深く、芸談、随筆など数冊の著書を残した。
日本芸術院会員。人間国宝。
九代目 昭和4年(1929)~平成11年(1999) 俳名 登舞
三代目坂東秀調の三男。昭和7年坂東光伸を名乗り新宿第一劇場、「時雨の炬燵」勘太郎役で初舞台。昭和10年9月父が没し、六代目尾上菊五郎の部屋子となる。六代目没後は、菊五郎劇団の一員として二代目尾上松緑のもとで修業を続ける。昭和30年に八代目三津五郎の長女喜子と結婚し、同年4月歌舞伎座「吉野山」の早見藤太で四代目坂東八十助を襲名。このころ、渋谷東横劇場で「蘭平物狂」の蘭平、「四の切」の忠信など数々の大役で活躍した。その後、昭和37年9月歌舞伎座で簑助を襲名する。
昭和62年9月歌舞伎座「喜撰」の喜撰法師、「傾城反魂香」の又平、「釣女」の太郎冠者で九代目三津五郎を襲名。
芝居では「石切梶原」の六郎太夫、「源氏店」の蝙蝠安など脇役として舞台を引き締め、踊りでは「舌出三番叟」「喜撰」「越後獅子」などが定評を得ていた。
また六代目菊五郎、二代目松緑そして七代目三津五郎から学んだことを伝承するため生涯をかけて後進の指導にも当った。
坂東流の家元としても、自主公演「登舞の会」を主催し、流祖三代目の初演作品の復活上演などに力を注いだ。
日本芸術員賞、紫綬褒章などを受ける。 平成11年没。
十代目 昭和31年(1956)~平成27年(2015) 俳名 爽壽
九代目三津五郎の長男。昭和32年、曽祖父七代目三津五郎の『傀儡師』の唐子で初御目見得。昭和37年、五代目坂東八十助を名乗り、『黎明鞍馬山』の牛若丸、『鳥羽絵』の鼠で初舞台。平成13年、『喜撰』の喜撰法師、『寿曽我対面』の曽我五郎、『め組の喧嘩』の辰五郎などで十代目三津五郎を襲名。
『蘭平物狂』『熊谷陣屋』などの時代物、『魚屋宗五郎』『髪結新三』などの世話物、『鳴神』『車引』などの荒事、『番町皿屋敷』などの新歌舞伎、そして『道元の月』などの新作歌舞伎など幅広い役柄を演じた。踊りには定評があり、『喜撰』『奴道成寺』、十八代目中村勘三郎丈とのコンビの『棒しばり』、三代目三津五郎初演の変化舞踊など数多くの舞踊を上演。平成20年には女形舞踊の大曲『京鹿子娘道成寺』を坂東流の型で踊り評判となった。
日本舞踊坂東流の家元としては流儀の運営のみならず、日本舞踊協会の常任理事を務めるなど日本舞踊の発展のために活動。
歌舞伎、舞踊以外にも『獅子を飼う』『砂利』『グレンギャリー・グレン・ロス』『芭蕉通夜舟』など様々なジャンルの舞台に出演。また、『MISHIMA』『武士の一分』『母べえ』などの映画、『おていちゃん』(NHK)、大河ドラマ『功名が辻』(同)、『うぬぼれ刑事』(TBS)『ルーズヴェルト・ゲーム』(同)など数多くのテレビドラマにも出演。また、『世界の街道をゆく』(テレビ朝日)では5年以上にわたりナレーションを務めた。
著書に『あばれ熨斗』(三月書房)、『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』(岩波書店)、『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』(同)、『三津五郎城めぐり』(三月書房)、『坂東三津五郎 粋な城めぐり』(角川SSC新書)などがある。
昭和63年に芸術選奨文部大臣新人賞、平成18年に日本芸術院賞、平成21年に松尾芸能大賞などを受賞。同年、紫綬褒章を受章。平成27年、旭日小綬章を追贈される。