トップページへ戻る
三津五郎の部屋に戻る 平成16年〜平成18年のバックナンバー

平成21年8月


花錫杖



銭錫杖
『喜撰』「チョボクレ」のところで喜撰が持っている紅白の柄に桜の花がついているものを「花錫杖(はなしゃくじょう)」といいます。

「チョボクレ」というのは、願人坊主のような物乞い坊主が、小さな木魚をたたいたり、金杖や銭錫杖をふったりしながら卑俗な歌詞を歌い踊る大道芸のようなものです。「チョボクレ、チョンガレ」という囃子ことばから「チョボクレ節」「チョンガレ節」などと呼ばれるようになりました。
『喜撰』の「チョボクレ」はこの風俗を舞踊にとりいれたものです。

「錫杖」というのは、僧侶や修験者の持っている杖のことです。頭の部分が金属でできていますが、そこに金属の輪が数個ついていて、杖をトンと突くとチャリチャリ鳴るようになっているものです。
これを短くしたものを「手錫杖」といいます。 願人坊主たちは、その「手錫杖」のかわりに竹を割ってY字にしてその間に一文銭をつけて、振るとチャリチャリと音がするようにした「銭錫杖(ぜにしゃくじょう)」などを持ってチョボクレを踊りました。

「チョボクレ節」は、実際の物乞い坊主を写実的にうつした『願人坊主』(『うかれ坊主』)『まかしょ』などの舞踊にとりいれられました。
これらの踊りでは小道具としてこの「銭錫杖」や「枯れ枝」を使います。 さらに、「チョボクレ」は『喜撰』『傀儡師』などのもう少し華やかな雰囲気の舞踊にもとりいれられましたが、この場合は小道具も華やかに「花錫杖」を使います。

『喜撰』には「住吉踊り」も出てきます。「住吉踊り」はもともと大坂の住吉神社の御田植の神事での傘のまわりを輪になって踊る踊りでした。それを江戸の願人坊主が真似をして踊りはじめ、俗化していったものです。

喜撰法師という人は謎の人物ですが、それにしても平安時代の法師に江戸の物乞い坊主が踊る「チョボクレ」や「住吉踊り」を踊らせてしまうところが、この踊りの面白いところです。
平成21年5月
『神田ばやし』の長屋の人々は、「念仏講」のために大家さんの家に集まっています。このような「講」に集まる人を「講中<こうじゅう>」といいます。 念仏講というのは浄土宗の仏事で、当番の家やお寺に集まって円になって座り、みんなで長い数珠を繰りながら百万遍(本当に百万回という意味ではなく「数が多い」という意味)の念仏を唱えるものです。本来はこの大数珠には1080(煩悩の数と言われる109の10倍)の珠があるそうです。その中にひとつ大きい珠があり、それが最初の人に戻ってくると鉦を打ち一周したことがわかるようになっているのだそうです。

芝居には何かのお祓いをしたりするために講中が集まって念仏を唱えている場面がよく登場します。また、お葬式や法事のときなどにも念仏講は行われていましたので、もともとは正式な仏事です。ただ実際にはそれだけではなく、『神田ばやし』を見ていただくとおわかりのように、お茶を飲んだりお汁粉を食べたりとご近所の親睦のための集まりの意味もあるのです。庶民にはむしろその意味合いの方が強く、「講中銭」というお金を集めて、ある程度たまるとみんなでどこかのお寺に参詣する小旅行に行ったりします。現代の「町内会費」のようなものです。

都会では、地域の付き合いもお寺の檀家同士の付き合いも希薄になっていますが、地方によっては、現在でも念仏講が行われているところがかなりあるそうです。やはり念仏を唱えた後は食事をしたりお茶を飲んだりという親睦の場になっているようです。
平成21年4月
『伽羅先代萩』の「床下」の荒獅子男之助は、鉄扇を持ち、仁木弾正の化けたねずみを踏みつけて登場します。

鉄扇というのは、骨が金属でできている扇子のことで、刀などの武器を持ち込めない場所に護身用に携帯していたものといわれています。

男之助の鉄扇は「箱鉄扇」といいます。客席から見ると扇子のようですが、実は写真のとおり木製の塗り物で、箱のような形をしています。通称「箸箱」とも言われます。横の面をみていただくとわかりますが、普通の扇子にあるような紙の折り目も見えませんし、骨も見えません。つまり開こうとしても絶対に開けない扇子なのです。

赤っ面に隈取りの顔とあの大きな衣裳の男之助の姿には、普通の扇子よりもこの箱鉄扇がよく合います。今では決まりものになっていますが、これも先人たちの素晴らしい工夫のひとつです。
平成21年3月






平成18年12月の国立劇場の『元禄忠臣蔵』公演の時にもご紹介しましたが、都内の『忠臣蔵』に関する史跡は、吉良邸(墨田区両国)を除いてはほとんどが千代田区、港区、中央区に集中しています。

今月の『元禄忠臣蔵』に登場する場面でみても、「江戸城の刃傷」は現在の皇居(千代田区千代田)、そして浅野内匠頭が切腹した田村右京太夫邸は港区新橋、次の「最後の大評定」は播州赤穂が舞台ですが、「御浜御殿」は現在の浜離宮恩賜庭園(中央区浜離宮庭園)、「南部坂雪の別れ」の南部坂は港区赤坂二丁目のあたり、「仙石屋敷」は現在のニッショーホール(港区虎ノ門)、そして、「大石最後の一日」の細川越中守の屋敷は泉岳寺に程近い港区高輪です。

今回、巳之助が演じております大石内蔵助の長男大石主税は討ち入りの後、堀部安兵衛、大高源吾らとともに松平隠岐守家に預かりになります。
元禄15年12月15日の夜に仙石屋敷で内蔵助らと別れてまず向かったのは、松平家の上屋敷です。現在は慈恵大学病院(港区西新橋)になっているあたりで、仙石屋敷からは徒歩で数分のところです。翌16日には中屋敷(港区三田・現 イタリア大使館)に移されて、翌年2月4日に切腹を命じられるまでを過ごしました。主税たちが切腹した書院前庭にあったといわれる梅は泉岳寺に移植され、「主税の梅」と名付けられ今でも見ることができます。

史跡といってもすべて都心にあるため、ほとんどは大小のオフィスビルなどになってしまっているうえに、立て札や石碑のようなものがないところも多いのですが、なかにはお屋敷町の雰囲気を残しているところもあります。赤穂浪士たちがどんな気持ちでそこを歩いたのか、またそこにいたのかを考えながら史跡をめぐってみるのもよいかもしれません。

写真1 ニッショーホール(港区虎ノ門二丁目)<仙石伯耆守屋敷>
写真2 慈恵大学病院(港区西新橋三丁目)<松平隠岐守上屋敷>
写真3 イタリア大使館(港区三田二丁目)<松平隠岐守中屋敷>
写真4 主税の梅(港区高輪二丁目・泉岳寺)
平成21年2月


『蘭平物狂』の後半の大立ち回りは大きな見所です。総勢30人もの花四天との20分以上にもわたる華やかな立ち回りが繰り広げられます。
この立ち回りが現在のような大規模なものになったのは、故尾上松緑さんの上演からです。それまではいわゆる普通の「奥庭の立ち回り」であったものを松緑さんの演出プランにより、坂東八重之助さんが立師として現在のような大立ち回りをつくり上げたのです。

その構成はもちろんのこと、下座音楽の使い方など、すべてが完成されているこの立ち回りは立師 八重之助の弟子ともいえる菊五郎劇団のお弟子さんたちにしっかり受け継がれました。今回も八重之助さんのつくったものをベースに現在の花四天のメンバーの特性にあわせて少しアレンジしてあります。

たくさんの花四天が登場しますが、それぞれ得意なことが違いますから、それを活かした立ち回りをつけるわけです。とんぼが得意な人、身軽で高いところでも平気で上れる人、棒を使うのが得意な人、ゆっくりな立ち回りが得意な人……などさまざまです。

そして、目立たないながらも大事な役割を果たしているのが、花道に立てる大梯子を支えたり、人をのせた梯子持ち上げたりという力仕事をする人たちです。これは力だけではなく経験も必要ですので、必ずベテランの人にも入ってもらいます。この人たちとの信頼関係がなければ、怖くて大梯子にはのぼれません。

そして、その梯子そのものもいい加減なものでは危険です。今回も『蘭平物狂』の上演が決まったときに、まず梯子に使う竹を発注しました。

また、同じ竹を使っても縄のかけ方によって、梯子の良し悪しがちがってきます。今回は、消防の出初式でおなじみのはしご乗りのプロである五区五番組の頭の伊藤さんに縄のかけ方を指導していただきました。一段一段の幅がちがってしまったり、斜めになってしまったりしないように添木を二本あてて固定しながら縄をかけます。要所要所で縄を木槌に巻きつけテコの原理でキュッと締めあげていきます。これで、人が乗ってもよれたりしないしっかりとした梯子ができるのです。
平成21年1月
『象引』の大伴褐麿で「公家悪」という役柄を初めて演じています。

「公家悪」とは『車引』の時平や『暫』のウケのような公家(当時の権力者)の敵役です。冷酷な性格で超人的な力を持つ役柄ですので、それを表す「公家荒れ」という不気味な青黛隈(青い隈)をとります。

隈取りにはもちろん基本的な約束はありますが、完全に決まったかたちがないものも多く、同じ役でも役者によって少しずつ違いがあることもあります。 青黛隈にもいろいろバリエーションがありますが、今回の褐麿は最後まで悪を貫き通す役ではなく、完全な青黛隈にしてしまうと不気味で強すぎてしまうので、成田屋さんとも相談して二日目から、大伴黒主のような痩せ隈だけを入れた化粧にすることにしました。

隈取りというのは顔の筋肉や血管を強調して、その役柄や表情や感情を表現するものです。大きく分けると、赤、青、茶の三種類があります。大まかにいえば、赤は正義、青は悪と亡霊、茶は人間以外の生き物などの変化や神仏をあらわします。さらに顔の地色によっても少しニュアンスが変わります。

この『象引』にも、いろいろな隈取りの登場人物が出てきます。

まず、主人公 箕田源二猛は豪傑をあらわす赤っ面に赤の一本隈、生津我善坊は戯れ隈(鯰坊主)、松原段平は猛より少し薄めの赤っ面に赤の一本隈、大宮隼人は白い顔にむきみ隈、と様々です。
そして、堀河勘解由の「かん筋(芝翫筋)」も、広い意味では隈といえます。ちなみに色は茶色ですが、これは人間です。
平成20年12月
『京鹿子娘道成寺』をご覧いただくとき、衣裳の美しさもその楽しみのひとつではないかと思います。

 同じ『娘道成寺』でも役者の好みや演出などによって少しずつ色や柄の違う衣裳をつかいますが、今回は、最近上演されている『娘道成寺』の衣裳とはっきり違う点がいくつかあります。

まずひとつは、「道行」を赤地にしだれ桜の衣裳で踊るということです。現在は黒地にしだれ桜の衣裳が定番のようになっていますが、これは六代目尾上菊五郎からはじまったもので、古くは「道行はほとんど赤い衣裳だったようです。
三代目三津五郎の錦絵にも赤の衣裳にびらり帽子をつけたものが残っています。(この錦絵は今月の歌舞伎座の筋書きにも掲載されています)

次に笠の踊りの衣裳です。その前の浅葱色(水色)の衣裳を肌脱ぎしたかたちで、上はトキ色(ピンク)に桜の柄の衣裳の方が多いのですが、今回はトキ色と赤の段鹿の子に桜の刺繍を入れたものにしました。
これは、三代目三津五郎初演の時の役者絵に描かれているものからとりました。この絵は、現在はモノクロで印刷されているものしか見ることができませんので、うちのお弟子とも相談して衣裳さんに工夫してもらいました。普通は段鹿の子といえば赤と浅葱なのですが、下が浅葱ですので、今回はトキ色で作ってもらいました。娘らしく可愛らしい色合になりました。

そして、もうひとつの違いは最後に最初と同じ赤の衣裳に戻るということです。
この衣裳も役者によっていろいろで、鐘に上がるときに肌脱ぎをして上半身を金や銀のウロコの模様(蛇体をあらわします)にする方もありますし、前の衣裳のままの方もあります。
私が20年ほど前に舞踊会で踊りました時は、振り鼓のところで上半身だけ引き抜いて赤になり、下は前の衣裳の藤色のままで鐘に上がりましたが、今回は上下両方引き抜いて全身最初の赤に戻るようにしました。

雑誌に掲載された曾祖父七代目三津五郎の聞き書きの中の「何度引き抜こうとも、鐘入りの前には必ず元の赤に戻るのが定めなのです」という言葉によったものです。

写真は、今回つかっている帯です。よく見ていただくと、宝づくしの柄にまじって大和屋にゆかりの柄が散りばめられているのがおわかりになると思います。
この他の衣裳もすべて美しいものばかりです。これからご覧になる方、また、もう一度ご覧くださる方はぜひ衣裳にも注目してみてください。
平成19年11月
『摂州合邦辻』は能(謡曲)の『弱法師(よろぼし)』と古浄瑠璃(説教節)の『しんとく丸』『愛護の若』などを下敷きにつくられたと言われています。

『弱法師』は、讒言によって息子の俊徳丸を追放した高安通俊が、後にそれを悔いて天王寺で行なった7日間の施行の満願の日の彼岸の中日に盲目の少年の乞食があらわれ、話をしているうちにその少年が我が子俊徳丸であることがわかり館へ連れて帰るという話です。 『しんとく丸』の主人公のしんとく丸は、清水観音の申し子として生まれ、学問も大変優秀だったためにこれを邪魔に思う継母の呪詛により癩病になり天王寺に捨てられてしまいますが、最後は清水観音の恵で病気は治り、のちに逆に盲目となった父に天王寺で再会し館へ連れて帰るという話です。
また、『愛護の若』はインドの説話が元であるとも言われますが、継母の継子への邪恋が主題になっています。

『合邦辻』『弱法師』『しんとく丸』の舞台になっている天王寺(四天王寺)は、聖徳太子が創建したと伝えられています。太子は病人を癒す療病院、身寄りのない者や年寄りのための悲田院など「四箇院の制」を制定したとも言われます。そのため天王寺には実際に俊徳丸のような病人や身寄りのない人々がたくさんいたのです。『しんとく丸』でも、盲目になったしんとく丸が捨てられるのも天王寺、また、後に盲目になり零落したその父と継母に再会するのも天王寺です。

ところで、『摂州合邦辻』の「天王寺万代池の場」の俊徳丸のセリフに「異ならぬ梅の薫り、色こそ見えね香やは隠るる、早夕暮れも近づかん、今日ぞ彼岸の日想観(じっそうかん)」とあります。これには『弱法師』の設定がいかされています。『弱法師』には「…げにや盲亀のわれらまで、見る心地する梅が枝の、花の春ののどけさは、難波の法によも漏れじ…」という一節があります。
 「日想観」というのは、「観無量寿経」に説かれている「十六観」(他に水想観、地想観などがあります)のひとつで、西方に沈む太陽をみて極楽浄土を思い浮かべるという修行のことです。

天王寺の西門は真西を向いています。その上、昔は入り江が入り込んでいたために海が目の前に広がっていたので、極楽の東門と向かい合っていると考えられていました。その天王寺で、ことに太陽が真西に沈む彼岸の中日は日想観を行なうのに最もよいとされ、たくさんの人々が集まっていたそうです。
天王寺は俊徳丸のような難病人が最後の望みをかける聖地であったであったようです。
平成19年10月


『奴道成寺』には三ツ面をつかった踊りがあります。
上の写真はその三つのお面で、下の写真はそのひとつの裏側です。
ご覧いただくとおわかりになると思いますが、目のところはほんのわずかしか開いていませんので、お面をつけると非常に視界がせまくなります。

口の裏のところには穴はなく、木でできた舌のようなものがついていて、お面をつけるときにはそこを口でくわえます。これを「くわえ」とよんでいます。写真では白く見えますが、くわえの部分にガーゼがかぶせてあります。このガーゼは毎日かえて使います。

瞬間的にお面をつけかえて踊りますので、ひもなどがついているわけではありません。お面が落ちたり、角度が変わったりしないようにしっかりくわえたまま踊るわけですから、当然かなり息がしにくくなります。

また、お面の横顔は無表情に見えてしまうためなるべく見せないように踊ります。一方、正面から見た場合、上下の角度によってかなり表情が違って見えます。とくにおかめの時はあごを少しあげ気味にしないと可愛らしく見えません。

『奴道成寺』『三ツ面子守』などお面をつかう踊りは、同じ衣裳でお面だけをかえて、それぞれの役を踊りわけるので体の動きには特に気をつけなくてはなりません。さらに『大原女』では、下に奴の衣裳を着込んでいるため、自分の体より何まわりも大きななっていますから稽古着などで踊る時に比べると相当からだを使わないときちんと踊っているように見えません。

このようにお面をつかう踊りは視界が狭い上に息も苦しい状態で、様々なことに気をつけて踊らなければならないのです。
平成19年5月
『女暫』の舞台番という役を勤めています。実際の舞台番は舞台の下にいて芝居の進行の邪魔をするような酔っ払いや喧嘩を取り鎮めたりする係です。『幡随長兵衛』の村山座の場でも酔っ払って暴れる中間を鎮めるために舞台番が登場します。

江戸時代の芝居小屋には「留場(とめば)」というところがありました。ここには木戸銭を払わないで入ろうとする客などの乱入を防ぐ役目の人たちが詰めていて、この人たちのことも留場とよんでいました。木戸口にいる端番と呼ばれる人は場外担当、この留場は場内担当でした。舞台番はその留場の人員の中から交代で出していました。場内で喧嘩などが起こると、舞台番が留場に向かって合図をして両方から留めるなどということがあったようです。

留場は下手側の桟敷の入り口、つまり揚幕に近いところにあり、立役者が楽屋から揚幕へ行くときに付き添って通路にいる人を整理するという役目もありました。『女暫』で巴御前によばれて出てきて、最後は太刀をかついで引っ込んでいく姿はこの留場の仕事を思わせます。

現在の劇場ではあまり大きなトラブルもありませんので、場内係は女性の案内さんが勤めています。
また、今月のスケジュールの写真を見ていただけるとおわかりのように、『女暫』の舞台番は「大和屋」の印判のはいった三ツ大の首抜きの縮緬浴衣という粋な拵えになっています。きっと本物はこんな格好ではなかったと思いますが。
平成19年4月


『芋掘長者』は、一昨年の5月に45年ぶりに復活上演しました。
その昭和35年の歌舞伎座の時は、藤五郎が松緑さん、治六郎が左團次さんという配役で、父 九代目三津五郎は魁兵馬役で出演していました。そのときに録音したと思われるオープンリールのテープが我が家に残っていたことからすべてが始まりました。

そのテープを聴いて復活上演を思い立ち資料を集め始めたのですが、まるで見つけてほしくて待っていたかのように『芋掘長者』の台本があったことから始まり、次々といろいろな資料が手に入りました。

『芋掘長者』は、大正7年に『棒しばり』と同じ岡村柿紅作、六代目菊五郎と曽祖父七代目三津五郎のコンビで初演されました。その後数回上演されていますが、その時々の筋書き、舞台写真と劇評の載った雑誌、古書店の古い写真の束の中からたまたま見つけたプロマイド、松竹写真部に残っていた写真、さらには先日亡くなられた吉田千秋さんが撮って下さっていた貴重な写真などなど…です。

それでも分からなかったことはいろいろあります。まず衣裳の色です。写真は残っているもののすべてモノクロですので大体の柄と色の濃淡しかわかりません。ところが、衣裳さんといろいろと相談していたところ、なんと45年も前の衣裳が倉庫にそっくり残っていてそれを探し出してきてくれたのです。それを再現してもらったのが今回も着ている衣裳です。

また、当時はビデオがありませんので、振りもまったくわかりません。テープに入っている舞台で「トントン」と足を踏む音、お客さんの笑い声などの反応、写真に切り取られたひとつひとつのカットなどを参考に新しく振付けました。

そして、もうひとつ資料がなかったのが扇子の柄でした。雀が飛んでいる絵がちらっと見える写真とお芋の葉っぱのような柄の扇子が写っているものがありましたが、はっきりと絵柄がわかるものはありませんでした。そこで、芋掘りと農村のイメージで、片面が金地にサツマイモ、片面が銀地に雀と稲穂と鳴子という絵柄にしました。 昨年、日本芸術院賞をいただいたときに授賞にまつわる作品などの展示会があり、私はこの扇子も展示しました。この展示は天皇陛下と皇后陛下にもご覧いただきましたが、そのときに皇后陛下に「お扇子もお芋なのですね」とお声をかけていただきました。
三津五郎の部屋に戻る 平成16年〜平成18年のバックナンバー
(C) Copyright 2001-2008 SUEHIROKAI All Rights Reserved.