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平成27年1月

◆「独楽売」
 今月浅草新春歌舞伎で「独楽売」が上演されています。この作品は大正12年に私の曾祖父七代目三津五郎、五代目福助によって初演されました。現在「独楽」というと澤瀉屋猿之助家の「独楽」が有名ですが、じつはそれよりも古くにできていた曲なのです。
 私が小学生のころ坂東流の舞踊会で、この「独楽売」が祖父八代目、父九代目で一日だけ上演されたことがありました。そのときは今回の芸者や半玉ではなく町娘と子供が共演する台本になっていて、叔母たちの町娘、私と妹二人が子供で出演しておりました。そのときの音源が家に残っていたものですから、十年前の坂東会創立85周年の舞踊会で復活することを思い立ち亡き三津弥さんと振付に着手いたしました。
 そのときに初春の亀戸天神の華やぎが伝わるよう芸者と半玉を出すことを思いつき変更。また独楽売二人の出が、セリフをいうとすぐ下手から登場するようにいなっていたのを、それでは主役二人の出が目立たず、そこで杉昌郎さんに補綴、故芳村伊十七さんに補曲をお願いして主役二人の花道の出の部分を作っていただきました。
 そして正月らしい楽しい雰囲気を醸し出すために獅子舞を出したり、棒の上を走るように独楽が行ったり来たりする小道具を考えて発注したのは私のアイデアです。
幸い曲も明るく大変良くできた曲ですし、正月に限らず亀戸天神は藤の名所でもありますから季節を選ばず、東京のみならず全国各地で再演できるなと、その時は取らぬ狸の皮算用をしておりました。
ところが東京でもなかなか再演の機会がなく、一緒に工夫をして仕掛けを作った小道具さんからも「せっかく作ったのですから早く再演してくださいよ」と催促されてしまう日々が続きました。
 そうしたことがあり、じつは今回浅草歌舞伎の已之助の演目として松竹さんからは別の舞踊の打診があったのですが、「その作品よりは正月の若手の顔合わせならこの『独楽売』の方が明るくてよくありませんか?」とDVDを渡しプレゼンをしてみたところ、ぜひこれをやらせていただきます、とプレゼンが通ったというのが今回上演に至った経緯です。
 残念ながら自分が主演して再演することはできませんでしたが、歌舞伎のレパートリーのひとつにと思って復活した作品が、やっと再演されこうして幅広くお客様にご覧いただけますことは、私にとりましては何より嬉しいことでございますし、一緒に振付を考えてくださった三津弥さんもきっと泉下で喜んでくださっておられることと思います。
 まずは今月の浅草のお客様に楽しんでいただき、その後名古屋や京都、大阪、博多などでも再演され歌舞伎舞踊の新しい人気狂言になってくれればよいなと、とても楽しみにしております。

平成26年8月

◆「たぬき」 柏屋金兵衛
 10年ぶり二度目になります。ご承知の通り大佛次郎先生は海老蔵時代の十一代目團十郎のおじさんのために「若き日の信長」や「魔界の道真」などの作品を書き下ろされていますが、その作品の中でいつも老け役ばかりやらされていた故松緑のおじさんが、「先生ひどいですよ。僕は海老蔵の末弟ですよ。それが兄貴を相手に老け役ばかりでは情けないです。私にも年齢相応のものを一本書いてください」と直訴して生まれた作品だと聞いております。
 その松緑おじさんの柏屋金兵衛は拝見しておりませんが、そのおじさんが太鼓持蝶作にまわられて、故羽左衛門のおじさんが柏屋金兵衛をなさったときの舞台を拝見して、面白い芝居だなぁ、と思いました。
初演当時、海老蔵作品を通じて菊五郎劇団のことを熟知されていた大佛先生が各役を役者に当てて書かれたものだといいうことがよくわかります。
 主演の柏屋金兵衛に松緑、太鼓持ちに先代左団次、老芸者お駒に多賀之丞、それぞれの役者さんの特徴を生かしたピッタリの配役です。なかでも序幕の隠亡には照蔵さんという名脇役があてられ、その名演技を引き出しました。初演の時、今回已之助が演じます若き隠亡を勤めていた亡き父が、その照蔵さんの名演ぶりをよく話してくれました。
 十年前の私の初演の時、この隠亡がいい役なものですから、会社の方からは幹部さんのある方でどうですか? と打診があったのですが、「いやこの役は初演の照蔵さんが示す通り、主役と対峙する隠亡が、叩き上げの名題さんというところに意味がある。私が頭を下げて挨拶をせねばならぬような幹部の先輩の方に出ていただいたのでは、大店の主人の金兵衛とずっと隠亡で暮らしてきた男との生活感の違いが鮮明でなくなってしまう恐れがあるから」とお断りし、中村源左衞門さんに演じていただきました。そしてその読み通り、源左衞門さんが素晴らしい演技をみせてくださったのです。
 今回もまた性懲りもなく幹部さんでいかがでしょう?と打診がありましたがやはりお断りして、中村山左衛門さんに演じていただきます。独特の個性を持った方なのできっと良い隠亡になるのではないかと期待しております。
 そして今回最後に出る息子梅吉を七緒八くんにお願いしました。金兵衛が生まれ変わって二年ほどが経っていますから本当は七緒八くんでは少し小さいのですが、金兵衛の企みを一気に破り翻心させる大きなキッカケとなる息子の役ですから、この作品の意味においても、中村屋と一緒に育てた納涼歌舞伎という歴史の上からも、ここは七緒八くんにお願いするに他はない、と決断いたしました。きっとお客様もさまざまな思いを重ねあわされてご覧になられることと思います。
◆「勢獅子」 鳶頭
 明るくにぎやかな常磐津の舞踊です。山王の祭礼を主題に鳶頭が、曽我物語、「ぼうふら」と呼ばれる独特の振付の部分、獅子、お面の踊りと、本来は主演の二人が趣向を変えて次々に踊り抜いていくという体力的にも大変な大曲です。
 今回は一座総出演ですので、それぞれに各パートを分担して色とりどりの構成になると思います。 昨年新しい歌舞伎座での第一回の納涼歌舞伎では、一座の者が一堂に揃う舞台がなかったものですから、来年はみんなが揃うにぎやかな舞台をひとつは入れようね、と話し合っておりましたので、その意向が実現した演目となりました。
 皆がわがままを言わず協力しあい、一体感を重視して盛り上げてきた納涼歌舞伎。その精神の結集のような華やかな舞台にしたいと思っております。

平成25年8月

◆「髪結新三」 髪結新三
16年ぶり2度目です。平成元年に「魚屋宗五郎」を初演した折、千穐楽のご挨拶に松緑のおじさんのところに伺ったところ、「お疲れさん、次は新三だな。お前の新三で嵐(現松緑)の勝奴を観るまでは俺は死ねねぇ・・・」とおっしゃたのが遺言のようになり、その舞台が実現したのが8年後の国立劇場でした。そのときは故権十郎のおじさんが弥太五郎源七に、亡くなった父が大家さんにと、長年菊五郎劇団で経験を積んだ二人が支えてくださり、とても有難かったことを憶えています。しかしその時は初役でもあり、松緑のおじさんの芸を必死になぞるような楷書の舞台でした。

その後、弥太五郎源七、忠七、大家さんと、この芝居の重要な役を数多く経験しました。その上で臨む今度の舞台は、あまり力むことなく、いつの間にやら芝居の世界に引き込むような自然な流れを大切に、そしてカドカドはきっぱりするという、芝居の駆け引きによる世話物の面白さ、醍醐味を感じていただける舞台になればいいな、と思っています。

俳句を始めてから気付いたことですが、本名題に「梅雨小袖昔八丈」とある通り、黙阿弥さんはじつに巧みに梅雨どきの江戸の風景を取り入れながら、その空模様を新三の心象風景に重ね合わせていることが分かり、舌を巻きました。

永代橋の場、幕が開くと激しい雨が降っています。その雨の中お熊を乗せた駕籠に勝奴が付き添って行き過ぎます。そうするうち花道から新三と忠七が相合傘で登場します。徐々に新三が本性を現していくうちに雨は止みますが、辺りの暗く淀んだ空模様の中で、新三の暗い心の闇の部分が表現され、ついにはドロドロにぬかるんだ道に忠七を蹴倒し、橋の向こうの、霧にかすむ闇の中へ去っていきます。

一転して新三の内の場は梅雨の晴れ間、すなわち五月晴れ。ホトトギスが鳴くなか、風呂上がりの新三が浴衣一枚の颯爽とした姿で、鰹売りを呼び止めます。釣りは要らぬと初鰹を買い、弥太五郎源七を意気のいい啖呵でやりこめ、抜ける青空とともに新三の侠気あふれる気風のいい男ぶりが展開されるのです。この江戸の梅雨どきの空模様をうまく芝居に取り入れた黙阿弥さんの着想を活かせるよう、新三の心の変化をうまく表現できたらと思っています。

そして今回台本を読み直してみると、小悪党と評されることの多い新三ですが、弥太五郎の復讐をまったく恐れておらず、命はいつ捨ててもいい覚悟があったことが見て取れます。すなわち武士が命よりも名を惜しんだことと同じで、武家が多い江戸の町の男気というものは、武士の気持に似た潔さが培われていたのだと思います。

江戸の梅雨の風情と、新三という男が存在するそのあり方。

そうしたものが浮かび上がってくる舞台になれば面白いなと思います。
◆「棒しばり」 次郎冠者
「棒しばり」に出演するのはもう13度目くらいになると思います。なんといっても故勘三郎との共演が多く、20代から8回を数えました。ひと月を25日とすると通算200回同じ舞台を勤めたことになります。今でも目をつぶれば隣で踊っている彼の息遣い、肉体の躍動がよみがえってきます。

同年輩で実力伯仲、しかし少し持ち味の違う同士、という彼とのコンビは、初演の6代目菊五郎、7代目三津五郎のコンビと共通する、作意に叶う絶妙のバランスの良さがあったのだと思います。しかし初めからうまくいったという訳ではありませんでした。

20代から30代にかけてはお互いに負けたくないという意識が強く、また若さもあって、父を始めとする先輩方から「お狂言物というのはお前たちのようにバタバタやるものではない。春風が吹くようにふわっとやるものだ」というご注意をよく受けたものでした。それが互いに40を越えた7度目の共演の頃から、負けたくないという意識が、「彼には僕がいて僕には彼がいる」という、互いに対する感謝の気持ちに変わり、「ようやく先輩たちに言われてきたような舞台に近づいたかもしれないね」と、握手を交わした日のことを忘れません。

主人の目を盗んで協力し合って酒を飲むという話ですから、同年輩でやることに越したことはありません。私も、父や富十郎の兄さんとやったことがありますが、やはり作意に叶ったものとは思えませんでした。その意味で言えば今回の勘九郎君との共演はまさに親子ほど年の違うコンビですから、同年輩の故勘三郎さんとの舞台のようにはいかないかもしれませんが、あまり年の差を感じさせないように私自身若く勤めたいと思います。そしてお狂言物というものはもともと面白くできていますから誰がやってもそれなりの成果を上げることができます。しかし私と故勘三郎さんが目指したのはその中でも「より上質のお狂言物を作り上げる」ということ。その精神を、今回の共演の中で勘九郎さんに感じてもらうことが私自身が望むことであり、故勘三郎が何より望んでいることだと思うので、その意味で一日も無駄にすることがない、充実した舞台を勤めたいと思っております。

平成25年6月

◆「喜撰」
おかげさまでずいぶん数を重ねて演じさせていただきました。
2001年襲名の初日、震えるような気持ちで花道を出ていったのが、ついこの間のような、ずっと昔のような、不思議な感覚にとらわれます。大和屋屈指の当たり役ということで初めは敷居の高い感じがしたものですが、今では自分に一番ちなんだ作品として、曲を聴いただけでも体が踊りだすような境地に進むことができました。とにかく曲がいい・・・。踊っていて思わず楽しくなり、また曲にゆだねるようにして体が動くようになりました。とはいえ、体はなかなか大変です。あと何年、このような状態で踊り続けられるのか・・・。終わりがないと思っていた役者人生にもやがて終焉が来るのだということを、勘三郎の死以来、切実に自分に問いかけています。であればこそ、今まだ元気で、しかも充実した舞台を勤められるこの時期に、多くの皆さんの目にその姿をとどめていていただきたいと思っております。
◆「土蜘」  平井保昌
以前NHKの「古典歌舞伎観賞会」で勤めただけで本興行としては初役です。頼光の家来として四天王とは別に独り武者と呼ばれた別格の武将ですから、頼りがいのある重さと厚さがなければいけないと思います。今回音羽屋さんの土蜘、播磨屋さんの頼光にはさまれても位負けしない、新しい歌舞伎座における自分の立ち位置を示すような役だと思いますので、そのあたりの意味も踏まえて、松羽目物の重さを踏まえながら華やかさを加えた役作りにしたいと思っています。
◆「助六」 通人里暁
初役です。これまで「助六」では、金棒引、並び傾城、朝顔仙平、福山かつぎ、助六、かんぺら門兵衛を勤めてまいりましたが通人は初めてです。
三年前の閉場式には中村屋が勤めていた役で、彼が元気でいたならきっと勤めた役です。それが僕にまわってきた・・、と思っていたら、股をくぐるはずの成田屋さんまでいなくなってしまい、胸中じつに複雑です。しかしそんなことはおくびにも出せない、明るく場を一変させなくてはいけない役ですので、お客様を笑いの渦に巻き込んでしまうような勢いで舞台に出ていきたいと思います。とはいえ、元来愛想のない芸風の私ですので、お客様に喜んでいただけるのかとものすごいプレッシャーに悩まされております。あまり面白なくても・・・どうぞご容赦ください。

平成25年5月

◆「寺子屋」武部源蔵
5度目になります。初めて演じたのは昭和60年5月。その頃役に恵まれなかった僕たちを代表して故勘三郎が当時の社長永山さんに直訴して、開演前の朝8時半から「若手歌舞伎観賞会」と題して一日だけの勉強会を開いたときでした。その時小日向のお宅で先代勘三郎のおじさんに、息遣いのひとつひとつに至るまで丁寧に教えていただいたことを今でも覚えています。

源蔵が戻って来るところから芝居は始りますが、本当は小太郎が寺入りするところからキチッとやった方が良いと思います。その方が小太郎の残像がはっきりとお客様の目に残り悲劇が増しますし、作劇的にも、チャリを交えた寺入りでお客様の肩をほぐし、そのあと源蔵が戻り急展開に緊迫した場面へと進んで行く、という流れに本来はなっているのです。現行のやり方ですと、幕が開いていきなり一番緊張した場面から芝居が始まることになる。過程をすっ飛ばして唐突にツーアウト満塁から野球の試合を始めるようなものです。

ですから幕が開いてすぐ深刻な表情で戻って来る源蔵が、お客様から見て唐突に見えないようによほど注意することが必要になります。

そのあと女房の戸浪に向かって話す長台詞は、息を詰めて「たて言葉」という手法で語り、本当は夫婦二人の内緒話なのですが、お客様にはっきり分かるように伝え、これから展開する芝居の下地をしっかりと作らねばなりません。このセリフの部分が難しく、初めてのときなかなかうまくできず、中村屋のおじさんに息遣いのひとつひとつを細かくご注意を受けた部分です。

そのあと松王と玄蕃の登場でさらに緊張感が増し、いよいよ小太郎の首を打つ決心をして奥へ入ります。奥では、お客様には見えませんが、肌を脱ぎ襷をして、実際に木刀を振りおろして小太郎の首を打つしぐさをします。そのあと肌をいれ身づくろいをして首桶を抱えて出ていくのです。首実検になり、死を決して臨みますが、「若君の首に相違ない」と言われて思わず力が抜ける具合。若君の無事を確認して夫婦で喜んだのもつかの間、小太郎の母親が訪ねてきて更なる緊張を迎え、そしてクライマックスへと。後半はあまり喋りませんが、松王夫婦の話をきちっと受けていないといけないなど、常に気を張っている役ですので、一幕終わるとドっと疲れのくる役です。

この源蔵夫婦は松王夫妻よりは年上ですが中年というわけではなく、駆け落ちして結ばれた夫婦ですから、今回少し若返ってやや色気の残る役作りにしようと思っています。

平成25年4月


新しい歌舞伎座、外観をご覧になった方は以前とほぼ変わらない姿を確認されたと思いますが、中へ入ったロビーの感じや、客席内部もほぼ前のままの印象で統一されています。施設的にはエスカレーターやエレベーターが付いたり、見やすいように客席に勾配が付いたりしていますが、客席にお座りになって前後左右を眺めると、もとの歌舞伎座に座っているような錯覚をされると思います。一方楽屋はまったく一新され、元の面影はどこにもないので、支度をして舞台に行くまでは「あぁ新しい劇場なんだな」と新鮮な気持ちなのですが、一歩舞台に出ると客席の眺めがほぼ前のままなので、もとの歌舞伎座に戻って演技をしているような不思議な気持ちで舞台を勤めています。
◆「お祭り」
「お祭り」は18代目勘三郎にささげる舞台。20年間苦楽を共にした「納涼歌舞伎」メンバーが勢揃いで、孫の七緒八くんも参加することになり、とびっきり明るく楽しい舞台にして、彼のもとに捧げたいと思っています。
◆「弁天娘女男白浪」  忠信利平
「弁天娘女男白浪」の忠信利平。新しい歌舞伎座で五人男の一人に選ばれ勢揃いに並べるのは光栄なこと。先輩方に位負けすることなく大きく立派に勤めて、新装開場を寿ぎたいと思っております。

平成25年1月

◆「車引」 梅王丸
25年ぶり5度目です。初めは沖縄復帰10周年記念公演で沖縄で演じました。その後昭和62年に、4月大阪新歌舞伎座、9月は父の九代目三津五郎襲名公演の歌舞伎座、12月は京都顔見世南座と一年に3回演じました。重い衣裳を着て三本の太刀を差して踏ん張るので、一年に3回も演じたせいか、少し痔になりかけた思い出があります。その後松王丸を演じましたが、今回梅王丸が25年ぶりとは、知らされるまでまったく気付きませんでした。

今回は10歳下の橋之助さん、うちの長女と同い年の七之助君と三つ子という設定なので、いささか無理があるような感じですが、中でも一番若く見えるように、骨格正しく、新年らしく勢いのある荒事をお見せできるように、心して勤めたいと思っております。
◆「釣女」  醜女
初役です。これまでに太郎冠者は2度勤めましたが、醜女は初めてです。
醜女ではあるもののどこか可愛らしい、愛嬌のある作りにして、明るく品のいい笑いをお届けできるように工夫してみます。
かつらの下に綿を入れておでこを膨らますのですが、その具合がなかなかうまくいかず、床山さんと何度もやり直しをして苦労しております。
今月の夜の部は一時間半を超える義太夫狂言が二つ続きますから、お客様に明るく楽しい気分でお帰りいただけるように努力したいと思います。
しばらく出ていない狂言ですので、これが成功すれば、また地方でも上演できるのではないかと楽しみにしております。
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